マイにち×○ざんマイ

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ネットじゃダメなの? 本を読む習慣は必要か。改めて考えてみた

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本を読むべきだ。インターネットでどんな情報でもすぐに手に入るようになったいまでもそういう意見は根強くある。

本を読んだ方が読まないよりかは「ベターである」ことは誰でもわかる。でもいつ何時も本を読む必要はあるのだろうか?必要に迫られたとき、気が向いたとき(だいたいそういうことは年に数回程度しか発生しないのだが)に読むのではダメなのか?

 

本を読むメリット?

本を読むメリットとして考えうるものを挙げてみよう。

 ① 娯楽

 ② 知識を得る

 ③ 論理的・批判的に考える能力を鍛えることができる(いわゆる「著者との対話」)

 ④ 学びがある、気づきがある(自分にない視点を見つけることができる)

 ⑤ 世界が拡がる、視野が拡がる(自分が知らない世界を知ることができる)

 

単なる娯楽や情報源としては、本は必須ではない

言わずもがな、①「娯楽」は、読書習慣が「必要」である理由にはならない。読書はある人にとっては娯楽になり得ても、別の人にとっては娯楽ではなり得ないかもしれないからだ。映画好きの人がいる一方で、映画をあまり見ない人もおり、映画をそんなに見たくない人に見ろと強制しても意味がないのと同じだ。

私は②〜⑤の効用があるものを見つけるのが極めて困難であるという理由で現代小説を読むことはほとんどないのだが、娯楽目的では現代小説もたまに読む。宮部みゆきのミステリーなどはほぼハズレなく面白い。

 

②「知識を得る」も、これだけインターネットが一般化した現在、本の意義は薄れてきている。それでも、知識や情報という観点からは、本にはインターネットにない価値もまだ十分にあると言ってよい。

断片的な情報が散らばりがちでソースも曖昧なことが多いインターネットに比べて、書籍は一つのテーマについての情報が系統立ってまとめられているし、まともな本であれば引用元も正確に記載されている。専門的なテーマになればなるほど書籍や論文にしか載っていない情報も多い。どんなテーマであれ本格的にリサーチするなら書籍を参照せずには徹底的に調べたことにはならないだろう。

しかし、「知識を得る」という意味では、必要に応じて(仕事や個人的な興味で知る必要が生じたときに)その都度インターネットで調べてみて、それでも足りなければ本を読めば事足りる。本から知識や情報が得られるということは、読書「習慣」が必要であるという理由にはならない。

 

「本」か「人」からしか得られないことがある

したがって、読書の「習慣」が「必要」であることの理由になりうるのは、③「論理的・批判的に考える能力が鍛えられる」④「学び・気づきがある(新しい視点を得られる)」、⑤「世界・視野が拡がる(新しい世界を知ることができる)」のいずれかだろう。

 

これらは、必ずしも読書だけからしか得られない効用ではない。しかし、読書以外でこれらの効用を得られる方法は1つしかない。

それは、「人と話す(あるいは人の話を聞く)」ことである。本を読まずとも、人と議論することで物事を客観的にロジカルに検討する訓練をしたり自分の見解を再検討する機会が得られるし、また、新しい人と出会ったり講演を聞いたりすることによって自分になかった視点や自分の知らない世界を知ることもできる。

 

しかし、大部分の一般人にとって、「人と話す」ことでこれらの効用(特に④⑤)を得ることはきわめて困難である。なぜなら普通は次々と新しい人と出会う機会など頻繁に持てないであろうし、ましてや学ぶ価値のある視点を持った人や自分とは違う世界に生きる人に出会う機会を多く持つことなどそうそうできないからだ。

 

ニワトリかタマゴか?「成功者は本を読んでいる」のウソ・ホント

「成功者は本を読んでいる」。読書の必要性が説かれる際にたびたび言われることだ。たしかに、成功者の多くが本を読んでいることはウソではないだろう。

しかし、「成功者」と思われる人でも本はほとんど読まないという人もいるし、他方、たくさん本を読んでいるけど、仕事やビジネス的には凡庸な結果の人もいる。

 

成功者(ここでいう「成功者」とは、主に仕事やビジネス、あるいはユニークな活動で成功している人のことを指す)になるかどうかの分かれ道は、本を読むかどうかではなく、その意識や能力の差だろう。つまり、物事を論理的に考え、事象を批判的に検討し、常に新しい視点を取り入れたり新しい世界を求めようとしているかの違いである。その姿勢が「習慣的に本を読む」という行為に現れているだけなのだ

 

したがって、成功者は、本を読んでいるだけでなく、世の中で起きている出来事にいつも敏感にアンテナを張り、忙しいはずなのにごく最近起きたこともよく知っている。新しい人と出会ったり変わった経験ができる機会にもかなり積極的に参加する。

稀にいる「本を読まない成功者」も「読書という手段」を重視していないだけで、「人」から多くを学んでいる。彼らは往々にしてとんでもなくコミュニケーション能力に長けていて、自らの足で新しい人や世界にどんどん飛び込んで行く。そして素晴らしい人に次々と出会い常に新しい視点や世界を取り入れている(そのために読書という手段を取る必要性をあまり感じないのかもしれない)。また、インターネットの記事を一般の人からしたら考えられないくらい多く読み込んでいたりもする。

 

逆に、習慣的に読書をしている人でも、ただなんとなく読んでいるだけの人もいる。著者が何を言おうとしているのかを考えたり調べたりすることもなく、本から何かを学ぼうとすることもない。彼らにとっては、読書は単なる暇つぶしでしかない

 

読書習慣が必要かは「どんな人生を送りたいか」による

 極端な話、自分の手が届く範囲の世界で生きていけば十分である、もっと外の世界は知らなくていい、というのであれば、読書をする必要はない。あるいは単に娯楽で読書をすればよい。

 

しかし、(これは私の個人的な意見だが)自分の生きる世界が広ければ広いほど、きっと人生は楽しい。そして、こんなに小さな地球でも、自分の世界を拡げていくには相当大きく、それに比して人生は短い。だから、もしできるだけ大きな世界を見たいなら、本に限らず、できるだけたくさんのものを読み、たくさんの人に会ったほうがいい

 

「本を読む」こと、「インターネットの記事を読む」こと、「人と会う/話す」こと。

それぞれにメリットがあるが、「本を読む」ことのメリットは、質のいい本を効率的に選び取ることができることだ。効率的に良い本を選べるという意味では私は圧倒的に古典をオススメする。古典は時の試練を経て現代に残っている。毎月大量に新刊が登場する新書とも、ましてやどこの馬の骨ともわからない人が書いているネットの記事とも一線どころか何線も画する、珠玉の作品である。また、闇雲に人に会うよりも高確率で偉人と対話できる。

誰だったか忘れたが、「古典が理解できないのなら自分が馬鹿だと思え。新書が理解できないのなら著者が馬鹿だと思え。」というようなことを言っていた人がいた。「新書が〜」のくだりはともかく「古典が〜」のくだりはそう思って良いだろう。古典を理解するにはそれが書かれた時代や著者の背景なども知る必要があるので時間も手間もかかるけれど、それらをかける価値はある。

(新しい本は時のふるいにかけられていないので、もしどうしても読みたいのなら口コミのふるいにかけてみたらいいかもしれない。それも好みだけども。)

 

要するに、読書は手段であって目的ではなく、結果であって原因ではない。「本を読むべきか?」という問い自体がナンセンスなのだ。