10年桜がAKB史上最高の良曲である3つの理由
「10年桜」って??
10年桜、といって、わかる人はもう少ないのではないだろうか。「え、千本桜ならわかるけど?」って?いやそれももう古いか……
10年桜とは、2009年3月に発売された、AKB48のメジャー11曲目のシングルである。なんともう7年以上も前の歌だ。
なぜこのジャケットはみんなアイメイクが不自然に濃いのか。。
AKB48の楽曲で初めて売上10万枚を超えたそうだが、それでもせいぜい10万枚。オリコン週刊チャートでも最高3位、2009年オリコン年間シングルランキングでは54位と、その成績はあまりにも寂しい。
(ちなみに、同年の年間ランキングでは、言い訳Maybeが47位、涙サプライズが39位、RIVERが22位。でも、Perfumeのワンルームディスコ(59位)よりは売れてた。ワンルームディスコもいい曲なのにな~。)
しかし…だ。売上げが微妙でもそれでもなお10年桜は間違いなくAKB48の一番の名曲だと思う。以下その理由を挙げていこう。
理由①:JPOPの真骨頂ともいうべき神的メロディー展開
とにかくこの曲はメロディー展開がすごい。最初から最後まで転調の嵐。そのうえ転調という転調が全部効果的すぎて、井上ヨシマサ(作曲者)あなた天才。
1番 Aメロ("どこかで桜の花びらが"):ハ長調(C)…①
1番 Bメロ(”君と会えたことが”):イ短調(Am)
1番 サビ(”10年後にまた会おう”):ハ短調(Cm)
間奏:ハ短調(Cm)
2番 Aメロ("今まで出会った誰よりも"):ハ長調(C)
2番 Bメロ(”辛いことあっても”):イ短調(Am)
2番 サビ(”10年後にまた会おう”):ハ短調(Cm)
Cメロ("Cherry Blossoms!"):変ホ短調(E♭m)…②
サビ(”10年後にまた会おう”):ハ短調(Cm)
Aメロ("どこかで桜の花びらが"):変ニ長調(D♭)…③
アウトロ("10年後にまた会おう!"):嬰ハ短調(C♯m)
① アップテンポながら短調のサビ
ポップなAメロ→ちょっと落ち着いたBメロ→サビで盛り上がる、というスタンダードな流れなんだけど、盛り上がりのサビが短調なのでどこか物悲しい。
この曲のテーマは「卒業」。全体的には明るい調子なんだけど、卒業=別れのもの悲しさが短調によってよく出ています。
しかも、歌詞の内容が調とリンクしてるんだなあ、、、
<Aメロ:ハ長調>
どこかで桜の花びらが はらりと風に舞うように
誰にも羽ばたく時が来て 一人きりで歩き出すんだ
明るい将来のこと。
<Bメロ:イ短調>
君と会えたことが 過ぎた季節の意味
その笑顔が眩しかった
一緒に行けないけど そんなに泣かないで
僕は忘れない
過去の輝かしい思い出。それと対比すると、これからの別れがちょっと寂しい。
<サビ:ハ短調>
10年後に また会おう この場所で待ってるよ
今よりももっと輝いて・・・
卒業はプロセスさ 再会の誓い
すぐに燃え尽きる恋より ずっと愛しい君でいて
今よりももっと輝いてるはずの10年後にまた会おうという約束。それはすなわちこれから10年会えないということでもある。
② 鳥肌の立つCメロ
”Cheery Blossom~ なんど咲いても~ きょーうーという日を忘れはしない~~~!”
このCメロの圧倒的感と意外性。聴いた瞬間、「これはやられた!」ってなる。
とにかく聴いてくれ!まじで!
③ 大サビならぬ大Aメロという斬新さ
普通は、Aメロ→Bメロ→サビ→(2番で繰り返し)→Cメロ→サビ→大サビよね。ミスチルの終わりなき旅とかTomorrow Never Knowsとかがわかりやすい。
しかし、10年桜の場合、Cメロ→サビ、までは同じなんだけど、からの、大Aメロ。大Aメロとか、そんな手法あるの?ヨシマサのファンですもう。
理由②:メンバーが可愛すぎる
とにかく、PVを一回みてほしい。みんなマジで可愛いから……!
こじはる、小野恵令奈、 篠田麻里子、板野友美、前田敦子、大島優子、宮澤佐江、まゆゆetc...うわあああああみんなかわいいです。
理由③:PVが謎解き~都市伝説的ミステリー
10年桜のPVは、一見カラフルでかわいいPVなのですが、ちょっと怖い(?)裏設定があります。
(以下ネタバレなので読みたくない方は省略してください。)
PVの解釈にも諸説ありますが、もう相当語り尽くされた感があり、おそらくほぼ定説となっているのが、以下の解釈です。詳しい分析はいろんなブログで語られているので、それぞれ納得できる解釈を見つけてください。
高校のクラスメートだった前田敦子と大島優子が、卒業の10年後に再会するところからPVが始まる。2人は、卒業前の思い出を回想する。
回想シーンは、卒業パーティの準備シーンと、卒業旅行のシーンが入り乱れて流れる。
しかし、卒業旅行の途中でバスが転落事故に会い、クラスのほぼ全員が亡くなってしまったことが明らかになる。
大騒ぎのあとのこの静けさが皆が死を受け入れたことを表しているといわれています。
死を受け入れたあと、バス停もない草原に、メンバーが次々とバスを降りていきます。バスを降りる=この世に戻れなかった=亡くなった、と解釈されています。
また、旅行にいっしょに行けなかったたかみなも、卒業間際に何らかの理由で(おそらく病気で?)亡くなった(下の画像はたかみながバスを降りるシーン)。転落事故で唯一生き残ったのが前田敦子と大島優子だった。
ちなみに、最後のシーンの大島優子と前田敦子の会話については、前田敦子がこれから死にに行こうとしているとか、諸説ありますが、個人的には納得がいくものがまだ見つかっていません。
転落事故の瞬間は、2番のサビの直前「僕はがんばれる~Wow~」のところです。何度もPVを見すぎたせいで、この部分を聴くといつも、この車が脱線して、崖から落ちて、星が(血で)赤くなる(=事故を表現)シーンを思い出してしまうのですよねT_T
でもね、このPV、直接的には転落事故の悲しい物語になってしまっているけど、「卒業=死=生まれ変わって新たに出発する」というポジティブなメッセージの暗喩だと思うのです。だから、10年桜のPV怖いっていうのは、ちょっと違うかなと思います。
そのメッセージ性は、10年桜PVの監督・高橋栄樹のコメント(2009年12月の『Quick Japan』Vol.87)にも表れています。
『10年桜』のPVは、『桜の花びらたち2008』で感じた「卒業」や「桜」に一種の死生観が出てる気がする。入学とは誕生で、卒業とは死。もちろんその死は、次のステージでの「誕生」を意味する再生でもある。学校って、生と死のサイクルを擬似的に体験する場所なんじゃないか、っていうね。あのPVってどこか夢っぽいし、あの世っぽい。10年後の前田と大島が思い出してる、夢の中の学校やバス。だから学校も装飾過多でサイケデリックだし、スクールバスも「なんでこんなところで?」って思うような何も無い所で降りてもOKになる。大島の妊婦姿も誕生の象徴だし…
耳でも目でも頭でも楽しい10年桜、まじで今更ですが、JPOPの名曲中の名曲です。
電通若手女性社員の過労死問題って結局なんだったのかというとだね
彼女が実際にどんな環境にあり、どんなことを思い、どんな風に苦しんだのか、本当のところは私にはわかる由も無い。だから、タイトルのようにわかったようなことはかけない。
だけど、彼女のいる業界は私のいる業界とは違うけれど、ある意味でとてもよく似た環境にあるのではないかと思う。
① 社内では、「仕事がある限り際限なく働く」ことが「普通」「当然」と考えられていること。そして、
② その働き方ができない人は会社から出て行け、と考えられていること。
総合職か一般職か。総合職なら残業は当然という極端な二元論
なんだか、日本では、定時に上がりたいなら給料安くなるよ、逆に稼ぎたいなら残業を拒否するなんて絶対に言語道断(特に若手に対してはそう)、という極端な二元論であるような気がする。
私も、電通の彼女と同じくらいの年齢の時はそのように考えていた。だって、周りがみんなそう考えていたから。だから、朝5時から夜1時まで働き、土日もほぼ毎日出勤し、飲みに行った日だって仕事があれば家に帰って仕事の続き、みたいな働き方をしていても、それほど疑問に思わなかった。もちろん、仕事のせいでデートに遅れたり、友達とのご飯を断らなくてはならなかったり、休日の家族との約束をねぶっちしてしまったりして、仕事に自分の時間のほとんどが侵食されていることがいやになることもあった。それでも、これだけ給料をもらっているのだから仕方ない、働くというのは結局時間の切り売りをすることなのだ、と思って働き続けていた。
もちろん、そんな極端な働き方に耐えられない人は続出する。そういう人は、会社を辞めることになる。
彼らに対して、特に能力ある人に対しては、会社は一応慰留する。だけど、最終的には「働き方のスタンスの問題だから仕方ないね」ということになる。「この業界で働くって、そういうこと」というわけだ。要するに、24時間働けますか?働けないなら別の会社行くしかないよね、ということだ。まあ電通がどうなのかわからないけど、少なくとも部署単位ではこういう雰囲気だった可能性は高いんじゃないだろうかと思う。
まったく日本は地獄のミサワだらけである。
そうやってスタンスの問題にされてしまうと、しょうがないのかな、という気もしてくる。ライフワークバランスって人それぞれだからね、人生観の問題だから、周りがとやかく言うことではない、と。
それは確かにそのとおりだ。でも、問題なのは、「定時に上がれるけれど、事務的な仕事だけで給料も安い」か、「仕事の内容はエキサイティングで給料もそこそこだけど、残業しないといけない」という二択しかなくて、「ちゃんと働くけど、早く帰る」っていうマトモな働き方のできる環境がほとんどないんじゃないだろうか、ということだ。
「ちゃんと働くけど、早く帰る」なんて、そんなことできるの?って思うかもしれない。
私が言いたいのは、働かないでお金をもらいたい、ということではない。それなりの報酬をもらうためには、それだけの価値のある仕事をしなくてはならないし、時にはコアタイム以外の時間にも働くことが要求される。それは当然だ。労働の対価をもらうということ、責任をもって働くということは、そういうことだからだ。
とはいえ、必要がなければ会社に残る必要はないし、家でできる仕事ならさっさと家に帰ってご飯を食べてちょっと団らんしてから寝る前にすればいい。
だけど、日本ではそれがやりにくい空気がある。部下の席に夜10時に電話したけどいなければ「おいおい。上司の俺は残ってるのになんであいつはいねーんだ(怒)」となるし、夜7時に帰ろうとすると「え、もう帰るの?最近落ち着いてるんだね~(=暇なの君?)」と言われる。「仕事はちゃんとします。でも必要以上には残りません。」と堂々と言える雰囲気がない。むしろ、早く帰るやつは、仕事がない=仕事ができないと思われてしまう空気すらある。
以前「俺実質1時間しか寝てねーからな~」「今日4時間も寝ちゃったよー!」などと寝てないアピールをしやがる1コマ漫画が流行った。あれはギャグだけど、ああいう、「働けば働くほどえらい」「寝てなければ寝てないほどかっこいい」という価値観がいまだ実際にはびこっているのだ。。恐ろしい。
シリコンバレーで出会った、マトモな働き方ができる環境
しかし、その「早く帰ってはいけない」雰囲気が「当たり前」ではないかもしれないと感じたのは、アメリカは西海岸、シリコンバレーの人たちと知り合うようになってからだ。
IT企業が割拠するシリコンバレーには、ITエンジニアがたくさん働いている。年収数千万円を稼ぐ彼らは超優秀だ。年収相当のバリューを出しているはずだし、忙しいときは家でも仕事をしている。定期的な評価の対象にされ、結果を出さないと会社から放り出されるという厳しい環境にもいる。
しかしその一方で、彼らは基本的には午後5時には退社する。週末は趣味に、家族のアクティビティに明け暮れる。旦那は夜遅くまで会社で働いて、平日見る娘の顔は寝顔だけ、休日は疲れ切ってほぼ寝ておりなかなか家族との時間を過ごすことができない、でもいいんだ、俺は一家の大黒柱だから、俺が働いてこそ家族が快適に暮らせるんだ、、という悲壮な日本のステレオタイプの働き者とは全然違う。
そして、大事なのは、仕事は仕事でちゃんとやるけど、プライベートもきっちり楽しむ、という価値観がみんなに認識され、認められていることだ。
こういう雰囲気は日本にはなかなかないので、新鮮に感じた。喜ばしいことに日本でもそういうスタンスの人は増えてきてはいるけど、「彼(彼女)はそういう考え方の人だから」といって、特別視されるようなことが多い気がする。
でも、仕事はちゃんとやっているけどさっさと帰る人のほうが、仕事早くてかっこいいじゃん、と思うのは私だけではないはずだ。
「どう働くか」についての考え方のギャップから生まれる悲劇
もちろん、働くのが好きで好きで、可能な限りすべての時間と労力を捧げても働きたい!という人もいる。その考え方自体を否定はしない。むしろ、働くことが生きていくうえでほぼ不可避である以上、そういう考え方のできる人は超うらやましい。
でも、残念ながらそういう人ばかりじゃない。「すべてをささげて働くべき」という考え方のAさんと「きちんと働くつもりはあるけどすべてをささげるつもりはない」という考え方のBさんが一緒に働くと、必ずうまくいかない。Aさんは「なんでBは怠けてるの?」といらいらするし、Bさんは「残業してまで急ぐ状況では全くないのに、なんでAは自分のやり方を押し付けてくるの?」といらいらする。しかも、地位に差があったら、たとえばAがBの上司だったら、さらなる悲劇が起こる。BはAから過度の要求をされていると感じるが、反論できず従うしかなく、ストレスが溜まっていく。肉体的にも精神的にも削られていく。そうやって会社を辞めていった人を、私は何人も知っている。そしてその一番最悪の結末が電通の事件である。
「仕事」にどう向き合うかは千差万別だ。そして、そのいずれも正しいとか正しくないとかいう性質のものではなく、それぞれの選択の問題である。ほぼすべての人にとって働くことが不可避である以上、働き方についての考え方が違うのは、政治や社会問題についての考え方がそれぞれ異なるのと同じように、どうしようもないことなのだろう。そして、上記のように、働き方についての考え方が違いすぎる人が一緒に働くと、最悪の場合は悲劇が起こりかねない。そう考えると、働き方についてのスタンスが似たような人が共に働くというのが、みんなにとってハッピーなあり方で、その意味では、日本における総合職/一般職という職位で労働条件をきっちり分けるというのは、ある意味では合理的なシステムだったのかもしれない。
でも、これまで述べてきたとおり、日本の主流の考え方は、めっちゃ働くかそこそこしか働かないかの極端な考え方しかない。もっと合理的に、賢く働いたほうが人生楽しいでしょ。そう思って日本を飛び出した優秀な若者を、私は何人も知っている。
なぜ男は元カノや浮気相手にも優しいのか?その答えはオリラジ藤森の合いの手にあった。
木綿のハンカチーフの女はなぜ振られたのかー「いい女」の条件とは?
村上春樹ファンをただのミーハーと思っている人へ。
「ハルキスト」は「意識高い系(笑)」なのか。
私は、村上春樹の小説が好きだ。
でも、「村上春樹を好き」ということは、なんとなくヒトに言いづらいところがある。村上春樹は日本の現代作家で最も人気かつ有名な作家の一人である。ノーベル文学賞候補にも毎年挙げられるほど、彼の作品は国外でも評価が高い。「好き」と言って恥ずかしいことなんかないはず。だけど実際は、「村上春樹が好き」と言うと、「あ、本読むっていってもそっち系ね」とでも言いたげに苦笑いをする人が多い。要は「あ~ミーハーなんだね(苦笑)」ということだ。
「村上春樹が好き」≒ミーハー、厨二病、意識高い系 みたいなイメージがあるのは、村上作品が読んだところ「意味がわからない」からだろう。
村上作品は荒唐無稽なことをいかにも意味ありげに並べているけれど、実際には意味なんてない代物だ。そんな無意味なものをファンは解ったような振りをして喜んで読んでいる、裸の王様みたいなものだ。あの翻訳風のキザな描写の仕方もいかにも厨二病が好きそうな感じ。ストレートであっけらかんとした性描写も現代的で、ギムレットやらオムレツやらホットサンドやら、何そのお洒落な洋書気取りな感じ。「村上春樹が好き」と聞いて苦笑する人が思っていることはこんなところだろう。
だから言えないんだよね、村上春樹が好きって。
夏目漱石だって同じくらいわかりにくい
しかし、ちょっと待ってくれと言いたい。村上春樹はたしかにわかりにくいけど、夏目漱石だって同じくらいわかりにくいよ。当時の社会情勢とか、漱石のライフイベントや人生観の変遷とかがわかっていないと全然理解できないもの。というか、深読みできない小説は、文学作品とはいえないんじゃないかと思うし。。
村上春樹は、実は言うほどわかりにくくはない。
たしかに、わかりにくい作品もある。たとえば、初期の二作品(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」)は、説明されていないことがあまりにも多すぎて、一読しただけでは本当に意味がわからない。他の作品も読まないとわからないことも沢山あるし。
でも、たとえば、大ヒットした「1Q84」。このテーマは一言で言うと「愛」と「悪との闘い」で、言わんとすることは非常にわかりやすい。もちろん、マザやらドウタやら、意味不明なワードがたくさん出てくるし、村上作品にはもはや定番の、謎かけみたいな言葉ばかり残していく超美少女も登場するしで、ふつうの現代小説よりはわかりにくいけれど。
村上春樹作品はなぜわかりにくいのか
村上春樹のわかりにくさは、おそらくテーマが難解なことにある。
彼が自分の作家としての使命をどう考えているかがわかるインタビュー記事があったので、少し長いけど、引用する。
「人間の存在というのは二階建ての家だと僕は思ってるわけです」・・・つまり一階はみんなが集まってごはんを食べたり・・・するところ。二階は個室や寝室で、一人になって本を読んだり、音楽を聴いたりするところ。そして地下室には特別ないろんなものが置いてあります。・・・
でも「その地下室の下にはまた別な地下室があるというのが僕の意見なんです」と村上春樹は言います。その地下室は非常に特殊な扉があってわかりにくいので普通はなかなか入れないし、入らないで終わってしまう人もいます。でも何かの拍子にフッと中に入ると、そこに暗がりがあるんですというのが村上春樹の意見でした。
「その中に入っていって、暗闇の中をめぐって、普通の家では見られないものを人は体験するんです。それは自分の過去と結びついていたりする、それは自分の魂の中に入っていくことだから。でも、そこからまた帰ってくるわけですね。あっちに行っちゃったままだと現実に復帰できないです」と語っていました。
・・・つまりこの地下二階の地下室に入っていくには危険性(リスク)があるのですが、その特殊な扉を開けて地下二階の地下室に入り、深い暗闇の中にある自分の過去や魂の世界を見て記述し、またちゃんと現実のほうに復帰してくるのが、作家というものだということを村上春樹は語っているのです。
引用元:http://www.fukuishimbun.co.jp/nationalnews/EN/calture/809567.html
つまり、彼は「地下二階の地下室」、いわば人間の無意識の世界(もっというとユングの「集合的無意識」的なもの)という超現実的なものを言葉にして小説にしようとしているのだ。
この「地下二階の地下室」は、ほぼすべての村上作品に登場する(もちろん1Q84にも)。 「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」などは、この「地下二階の地下室」そのものの話(しかも、主人公は最終的には「あっち側」に行ったまま戻ってこない)という斬新な小説だ。
村上春樹作品が荒唐無稽な理由
村上春樹作品では、非現実的な状況が次々に起こる。話す羊が出てきたり、おじいさんが何百キロも離れたところにいる男性を殺したり、壁を通り抜けたり、光るさなぎの中に主人公が少年の頃好きだった女の子が眠っていたり。そこだけとってみればファンタジーに分類されても良さそうなくらいである。
これも、無意識の混沌とした世界を小説のテーマの対象にしていることが理由だろう。その意味ではシュールレアリスムに近い。でも、シュールレアリスムと決定的に異なるところは、無意識の世界と現実の世界との関係や、その関係に意味を見出そうとしているところだ。シュールレアリスムは現実と無意識の世界を区別せずに、それをそのまま描こうとするものだ(私の理解が正確ではないかもしれないが)。しかし、村上春樹は、あくまで「こちら側」から、無意識の世界の誘惑や、その世界からの語りかけ(?)と向き合おうとしているように見える。
村上春樹を読もう!
いろいろ言ってきたが、村上春樹なんてミーハーっぽくて嫌だから読んだことないよ、という人がいたら、それは飛んだ濡れ衣なので、ぜひ読んでみてほしい。意外に深いし、難解。意味がわからなくてもお洒落で雰囲気を楽しむだけでも楽しい。特に、処女作「風の歌を聴け」はその心地よい気だるさが、読んだ後になんとも言えない余韻を残してくれる(それでいてよく読み込めばとんでもなく難解で解くべき謎がたくさん詰め込まれている小説だ)。とはいえ、せっかく読むなら村上春樹の強いメッセージを読み取ってほしい。彼は小説を無意味に量産するタイプの作家じゃない。ちゃんと読もうとすればかなり読み応えのある作品ばかりだ。
ノーベル文学賞の発表がいつかは公表されていないけど、13日という説が濃厚。今年こそは・・・?いややっぱり無理だろうな^^;
ジャニオタでもない私が敢えていまHey! Say! JUMPについて語る
ネットじゃダメなの? 本を読む習慣は必要か。改めて考えてみた
「努力・友情・勝利」からみるナルトとワンピースの対照性、そしてデスノートの特殊性
堀江貴文とドランク鈴木拓は実は似ていた
仲良くろくろを回す堀江氏とドランクドラゴン鈴木氏
堀江さんもドランク鈴木さんもよく人となりを知っているというわけではないが、彼らのインタビュー記事(リンクは一番下に掲載)を読んで、この2人の考え方はかなり似ているものがあるな、と思った。
彼らの突出した点は、自分に対して非常にドライだということ、自己肯定感が半端ないこと、目的志向型の超リアリストであるということに要約できる。
① 自分に対してきわめてドライであるということ
「我が身かわいさ」とか「プライド」がない(あるいは捨てている)と言い換えることもできる。
ホリエモンは「言い訳をする奴はクズ」(※私による要約)という。ドランク鈴木は「才能のない奴は努力をするな」という。
彼らは、自分の能力、長所短所、他人からどう見られているか、などを、きわめて客観的に物凄くシビアに見ている。多くの人がするように、自分に甘くやらないことの言い訳をすることもないし、いくら頑張ってもできないことは(心情的にやりたかったとしても)やっても無駄として最初からやらない。
これは結局、彼らが目的志向型のリアリストであること(③)に起因するものではあるが、ここまでドライになれるのは、自身の自己肯定感(②)に支えられているからでもある。
② 強い自己肯定感
ホリエモンは「自意識とプライドを捨てよ」「人からどう見られているかなど気にするな」という。しかし、それは、「他人の目なんて全く気にしなくていい」とか「嫌われてもやりたいことを貫け」などということではない。彼の趣旨を正確に表現するなら、「人からどう『見られているか』を気にするな」というより、「人からどう『見られたいか』を捨てよ」ということだと思われる。
ドランク鈴木はまさにそれを実践している。彼は記事でこんなことを言っている。
「自分の人生や生活に関係ないところ、どうでもいいヤツらに何と思われても何を言われてもいいんです。僕は。全然まったく一切気にならないです。SNSとかインターネット上の評判なんて、まぁどうでもいいですから。好感度なんて、まぁいらないですから。・・・「あぁ、また奥さんに肩身の狭い思いをさせるなぁ」とは思うんですけど、でも好感度が鈴木家にメシを食わせてくれてるワケじゃないですから。」
もちろんホリエモンも、ネットでは彼に好意的な人が多いが(一部には崇拝者までいるが)、一般的には依然あまりいいイメージを抱いていない人が少なくないことは自覚しているだろう。かなり前だけど茂木健一郎さんと一緒に「嫌われ者の流儀」という本まで出しているくらいだし。
これだけ他人(ただし自分と関係のない人に限るが)から嫌われても、クズだと言われても、平気(実際のところは少々凹むこともあるだろうが)なのは、彼ら自身が言うように、「要らないプライドを捨てているから」である。しかし、「要らないプライドを捨てる」ということ自体がなかなか難しい。彼らがそれをできるのは、自己肯定感が半端ないからだ、と思う。
自己肯定感は自信と似ているが、少し違う。
自信は自分自身が「スゴい」ことに対する感情である。だから、自信は、何かの拍子に「自分はすごくないんだ」と気づいたり「自分よりスゴい人がいるんだ」と知ったりすることで壊れることがままある。
しかし、自己肯定感は自分の長所も短所も全て受け入れられることである。自己肯定感は幼少期からの成長の中で徐々に育まれるもので、順調に自己肯定感が醸成されれば、ちょっとやそっとのことでは失われることはまずない。その代わり、成長過程でうまく自己肯定感が醸成されないと、大人になってから自己肯定感を獲得するのはかなり難しい。「黒子のバスケ」事件の被告人も、最終意見陳述で、自分は成長過程で自己肯定感を獲得できなかったというような話をしていた。
③ 目的志向型の超リアリスト
彼らは、自分の目的や最も優先すべきことをクリアに持っている。ホリエモンが「言い訳をする奴はクズ」というのは、日々の忙しさに追われて目的を忘れてしまう、「木を見て森を見ず」の状況に陥るのを、彼が最も愚かなことだと思っているからだろう。
そして、彼らは目的達成に最適化した行動をとる。目的達成を阻害するものは(感情的に捨てがたいものだとしても)躊躇なく捨てられる。それは、かっこよく思われたいという小さな見栄だったり、みんなに好かれたいと言う八方美人的な考えだったり、あれもこれも欲しいという欲張りな考えだったり、いわゆる「情」だったりするかもしれない。でも、彼らは「一番大事なこと/ものは何か」を常に見失わず、それを阻害することに決して流されない。
一言で言うなら「極端に合理的」なのである。
彼らみたいな人は、要するに、単純に「素直」に生きているのである。だから裏表がなく、とても清々しい。個人的には結構好きな部類の人間だ。
しかし他方で、人間関係もきわめて合理的に選択する傾向がある。「自分の人生に必要ない」と思った人に対してはとんでもなく酷い態度(例えば、いないものとして扱っているような態度)をとったりする。だからと言って、こういう態度をとられても怒ることなかれ。彼らに悪気はないのだ。単に、あなたが彼らにとって「付き合う価値のある人間ではない」と判断されただけなのだ。
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にんじんがそれほど好きではなかった私がにんじん好きになってしまった理由
私は、にんじんを嫌いとまでは言わないまでも、それほど好きではなかった。
というのも私が今まで食べてきたにんじんは、だいたい煮るか(カレー、豚汁、煮物)茹でるか(ハンバーグの付け合わせにたまに登場するボイルにんじん)されたもので、その食感はやわらかくて、お世辞にも美味しいと言えるものではない(付け合わせのボイルにんじんが好きという人間を私は見たことがない)。焼いたり炒めたりしたにんじんはまだましとはいえ、それでもすごく美味しいというわけではない(炒め物のにんじんはだいたいがおそらく彩りをよくするためだけに入れられているのだと思う)。
そんな私をにんじん大好きにさせたメニューがある。
にんじんマリネだ。
生のにんじんと調味料のみの、ど直球にんじんレシピ。玉ねぎのみじん切りを少し入れても美味しい。
にんじんを細切りにして、塩をなじませてしなっとさせて、お酢、塩コショウ、レモン汁を入れる。これだと酸っぱいという人は砂糖やハチミツを入れても良いが、入れなくても十分に甘い。オリーブオイルを少し加えてもいい。そして冷蔵庫で冷やしておくだけ。
実に美味しくて、大量に作ってもすぐにペロリと食べてしまう。
しかも、熱を加えないと吸収が良くないと言われているにんじんのβカロチンは、熱の代わりにお酢を加えることでも吸収が良くなるそう。美味しい上に栄養面でも合格なんて、優秀すぎ。
なんで生だとこんなに美味しくなるのか。好きすぎる。にんじんマリネ。
女子が好きな食べ物はだいたいカロリーもGI値も高い
芋栗南京(いも・くり・なんきん)は、女性が好きな秋の味覚と言われている。私の母もご多分に洩れずいもくりなんきんが大好きで、スイートポテト(いも)、モンブラン(くり)、かぼちゃのタルト(なんきん)あたりを手土産にすればまず100%喜ぶ。
でも、この3つの野菜、炭水化物(糖質)が多い野菜の代表と言われていて、糖質制限ダイエットでは米やパンと同様に避けねばならない。GI値(血糖値が上昇する速さを表した数値。高ければ高いほど太りやすい)も当然高い。要するに、太りやすいのだ。ホクホクしてて野菜っぽくないからね。なんかわかるけど。
いもくりなんきんだけではない。一般的に女性が好きと言われている食べ物は、甘かったり(糖質が多い)こってりしていたり(脂肪分が多い)して、太りやすいものが多い。
たとえばパンケーキ。
数年前、都内のパンケーキ屋に早朝から数時間の行列ができる(客は主に女性)という事態が発生したほどに女性はパンケーキ好きだが、パンケーキなんて太る要素しかない。小麦粉+砂糖という炭水化物の塊からつくられ、トッピングもバター、生クリームといった脂肪の塊、さらには糖分の塊であるメープルシロップが追い打ちをかける。
なぜそんな太るだけの食べ物に何時間も並び、何千円も出すのか。そのカロリーを消費するためにその後ジムに行くくらいだったら食べない方がマシではないか。理解に苦しむ。同じく数年前流行ったフレンチトーストも然り。
あるいはパスタ。
男友達(割とモテる)が「女にはイタリアン食わせとけばいい」と言っていた。完全に女をナメている。
アボガドも大概女子は好き。
アボガドはGI値は低いけど、脂肪分の多さは「森のバター」と言われるほど。バターなんだからもはや果物に分類してはいけない気がする。
ちなみに私はいもくりなんきんもパンケーキもパスタもアボガドも全部好きじゃないです。むしろどちらかというと嫌いです。女子が好きそうな食べ物は大概嫌い。
そんな私が好きな食べ物はからあげ。…全く女らしくない上に太りそうですね。
今週のお題「秋の味覚」
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① 娯楽
② 知識を得る
③ 論理的・批判的に考える能力を鍛えることができる(いわゆる「著者との対話」)
④ 学びがある、気づきがある(自分にない視点を見つけることができる)
⑤ 世界が拡がる、視野が拡がる(自分が知らない世界を知ることができる)
単なる娯楽や情報源としては、本は必須ではない
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断片的な情報が散らばりがちでソースも曖昧なことが多いインターネットに比べて、書籍は一つのテーマについての情報が系統立ってまとめられているし、まともな本であれば引用元も正確に記載されている。専門的なテーマになればなるほど書籍や論文にしか載っていない情報も多い。どんなテーマであれ本格的にリサーチするなら書籍を参照せずには徹底的に調べたことにはならないだろう。
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「本」か「人」からしか得られないことがある
したがって、読書の「習慣」が「必要」であることの理由になりうるのは、③「論理的・批判的に考える能力が鍛えられる」④「学び・気づきがある(新しい視点を得られる)」、⑤「世界・視野が拡がる(新しい世界を知ることができる)」のいずれかだろう。
これらは、必ずしも読書だけからしか得られない効用ではない。しかし、読書以外でこれらの効用を得られる方法は1つしかない。
それは、「人と話す(あるいは人の話を聞く)」ことである。本を読まずとも、人と議論することで物事を客観的にロジカルに検討する訓練をしたり自分の見解を再検討する機会が得られるし、また、新しい人と出会ったり講演を聞いたりすることによって自分になかった視点や自分の知らない世界を知ることもできる。
しかし、大部分の一般人にとって、「人と話す」ことでこれらの効用(特に④⑤)を得ることはきわめて困難である。なぜなら普通は次々と新しい人と出会う機会など頻繁に持てないであろうし、ましてや学ぶ価値のある視点を持った人や自分とは違う世界に生きる人に出会う機会を多く持つことなどそうそうできないからだ。
ニワトリかタマゴか?「成功者は本を読んでいる」のウソ・ホント
「成功者は本を読んでいる」。読書の必要性が説かれる際にたびたび言われることだ。たしかに、成功者の多くが本を読んでいることはウソではないだろう。
しかし、「成功者」と思われる人でも本はほとんど読まないという人もいるし、他方、たくさん本を読んでいるけど、仕事やビジネス的には凡庸な結果の人もいる。
成功者(ここでいう「成功者」とは、主に仕事やビジネス、あるいはユニークな活動で成功している人のことを指す)になるかどうかの分かれ道は、本を読むかどうかではなく、その意識や能力の差だろう。つまり、物事を論理的に考え、事象を批判的に検討し、常に新しい視点を取り入れたり新しい世界を求めようとしているかの違いである。その姿勢が「習慣的に本を読む」という行為に現れているだけなのだ。
したがって、成功者は、本を読んでいるだけでなく、世の中で起きている出来事にいつも敏感にアンテナを張り、忙しいはずなのにごく最近起きたこともよく知っている。新しい人と出会ったり変わった経験ができる機会にもかなり積極的に参加する。
稀にいる「本を読まない成功者」も「読書という手段」を重視していないだけで、「人」から多くを学んでいる。彼らは往々にしてとんでもなくコミュニケーション能力に長けていて、自らの足で新しい人や世界にどんどん飛び込んで行く。そして素晴らしい人に次々と出会い常に新しい視点や世界を取り入れている(そのために読書という手段を取る必要性をあまり感じないのかもしれない)。また、インターネットの記事を一般の人からしたら考えられないくらい多く読み込んでいたりもする。
逆に、習慣的に読書をしている人でも、ただなんとなく読んでいるだけの人もいる。著者が何を言おうとしているのかを考えたり調べたりすることもなく、本から何かを学ぼうとすることもない。彼らにとっては、読書は単なる暇つぶしでしかない。
読書習慣が必要かは「どんな人生を送りたいか」による
極端な話、自分の手が届く範囲の世界で生きていけば十分である、もっと外の世界は知らなくていい、というのであれば、読書をする必要はない。あるいは単に娯楽で読書をすればよい。
しかし、(これは私の個人的な意見だが)自分の生きる世界が広ければ広いほど、きっと人生は楽しい。そして、こんなに小さな地球でも、自分の世界を拡げていくには相当大きく、それに比して人生は短い。だから、もしできるだけ大きな世界を見たいなら、本に限らず、できるだけたくさんのものを読み、たくさんの人に会ったほうがいい。
「本を読む」こと、「インターネットの記事を読む」こと、「人と会う/話す」こと。
それぞれにメリットがあるが、「本を読む」ことのメリットは、質のいい本を効率的に選び取ることができることだ。効率的に良い本を選べるという意味では私は圧倒的に古典をオススメする。古典は時の試練を経て現代に残っている。毎月大量に新刊が登場する新書とも、ましてやどこの馬の骨ともわからない人が書いているネットの記事とも一線どころか何線も画する、珠玉の作品である。また、闇雲に人に会うよりも高確率で偉人と対話できる。
誰だったか忘れたが、「古典が理解できないのなら自分が馬鹿だと思え。新書が理解できないのなら著者が馬鹿だと思え。」というようなことを言っていた人がいた。「新書が〜」のくだりはともかく「古典が〜」のくだりはそう思って良いだろう。古典を理解するにはそれが書かれた時代や著者の背景なども知る必要があるので時間も手間もかかるけれど、それらをかける価値はある。
(新しい本は時のふるいにかけられていないので、もしどうしても読みたいのなら口コミのふるいにかけてみたらいいかもしれない。それも好みだけども。)
要するに、読書は手段であって目的ではなく、結果であって原因ではない。「本を読むべきか?」という問い自体がナンセンスなのだ。